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沿革、龍光院の歴史

創立
浄土宗の宗祖法然上人四百回忌に当たる慶長十六年、徳川家康の側室阿茶局の発願により、馬喰町の浅草橋近くに光厳寺(雲光院)が建立され、潮呑上人が初代住職(開山上人)として就任しました。今から約四百年前のことです。
龍光院は、雲光院の建立と同時期に、塔頭(たっちゅう)として創建されました。当初は法龍院、清光院、清心院という別々の寺院でした。
創立
創立当時の場所


潮呑(ちょうどん)
徳川家康が帰依した、増上寺存応(観智国師)に永年師事し、家康の許しを得て雲光院を開いて、浄土宗義の研究に専念しました。後に大本山金戒光明寺の二十八世となり、境内整備や寺内の粛清などに貢献しました。
潮呑上人
潮呑上人


阿茶の局(あちゃのつぼね)
甲斐国武田氏の家臣飯田直政の娘、須和。今川氏の家臣神尾忠重の妻となりましたが、その没後家康に仕えて阿茶局と称しました。
大阪冬の陣では和睦の使者を勤め、徳川秀忠の娘、和子入内の際には母親の名代として上洛、元和九年皇女誕生の折も在京して従一位に叙されました。
寛永三年徳川秀忠・家光の上洛にも加わるなど、家康没後も活躍し、秀忠没後は雲光院殿と称しました。
阿茶の局(あちゃのつぼね)
阿茶の局(あちゃのつぼね)


馬喰町から岩井町へ
現在の馬喰町は日本橋ですが、江戸時代は神田馬喰町と呼ばれていました。 雲光院は創立から四十数年後の明暦三年に、明暦の大火で焼失し、神田岩井町へ移転しました。岩井町は、馬喰町から南西へ数百メートルほどの所で、現在は岩本町の一角になっています。明暦の大火は江戸市中の大半を焼き尽くし、死者は三万人とも十万人とも伝えられる大火災でした。
馬喰町から岩井町へ
馬喰町から岩井町へ(元禄年間の地図)


深川へ移転
それから二十数年後の天和二年、江戸に再び大火があり、雲光院一山も全焼してその年深川に移りました。この大火は、駒込吉祥寺に避難した八百屋の娘お七が、出会った寺小姓と会いたさに、自宅に火をつけ処刑されたことから「お七火事」とも呼ばれ、歌舞伎や浄瑠璃の題材にされたことでも有名です。
深川は江戸時代以前には葦の生い茂る三角州でした。今から四百数十年前、深川八郎右衛門の一族によって開拓され、その後徳川家康により、一族の名前にちなんで深川と命名されたと伝えられています。
神田から深川へ
神田から深川へ(享保年間の地図)


深川の寺町
江戸時代中期以降、徳川幕府の政策によって、雲光院を始め、中央区や千代田区にあった寺院の多くが深川へ移転され、深川は寺町として発展しました。
雲光院一山が深川へ移転してから五十年余り後の享保十九年、法龍院と清光院が合併して龍光院となり、天明八年、更に清心院を合併しました。
深川の寺町
深川の寺町(安政年間の地図)


明治・大正時代
創建当時、十五箇寺あった雲光院一山の塔頭は、合併などによって、明治時代までに七箇寺に統廃合されました。
明治政府の宗教政策による廃仏毀釈や本末解体などの苦難を乗り越えた矢先、突如として起こったのが、死者十万人、罹災者二百万人といわれる大正十二年の関東大震災でした。
雲光院一山
雲光院一山(明治時代の地図)


関東大震災以後
震災後の東京では、大規模な都市計画が実施され、深川の寺町地区も大幅な区画整理が行われました。それまで雲光院西側にあった龍光院も、南側の現在地へ移転しました。
区画整理後

区画整理後(昭和20年頃の地図)


大空襲と戦後復興
昭和二十年三月の太平洋戦争大空襲は、漸く震災から復興した下町に再び壊滅的な被害を与えました。当時木造の建物が軒を連ねていた深川地区はほとんどの家屋が焼け、十万人にのぼる犠牲者が出ました。終戦後復興した龍光院は、深川七福神の「毘沙門天」としても信仰を集め、とくにお正月は多くの参詣者でにぎわっています。
深川七福神